2011/07/18

湯村山のヤマユリ(Lilium)

甲府市街北部にある通称「湯村山」は、鬱蒼とした雑木が茂る里山だ。近年は遊歩道も整備され、登りやすくなり、早朝はビックリするくらいの人出がある。武田の杜遊歩道の起点であり、ここから「小松園地」-「積翠寺」-「要害山」を経て「愛宕山」方面に通じている。
keiは、小さい頃から通称「法泉寺山」と呼ばれた小山から湯村山にかけてを遊び場としていて、泥んこになりながら山を駆け回っていた記憶がある。高校生になった頃から、山には行かなくなってしまい、山は遠くから眺める存在であった。
8年前に犬を飼い始め、散歩で時々は山へ入るようになった。先にも書いたように、久しぶりに入った山は、道が整備され、樹木が間引かれ、トイレまで作られるなど、よく整備され、keiの記憶にあった山は一変していた。里山だから、ほどよく手の入った状態は、悪くはなかった。
平成17,8年頃だったと記憶しているが、遊歩道沿いに「ヤマユリの盗掘防止」を呼びかける看板を見かけるようになり、テレビニュースなどでも、近くの中学生が「ヤマユリを植えた」といったニュースを見かけた。地域に住んでいる教員OBの方々が中心となり、「湯村山にヤマユリを蘇らせる」活動をしているらしい。看板は「山梨県・甲府市」の名前があり、地元の中学生が動員され、報道もされるなど、行政や地域が一体となった活動をしているようだ。

だが待て! 蘇らせるって・・・・
かつて 湯村山にヤマユリが咲き乱れていたことがあったのか?
少なくとも、kei が山を駆け回っていた昭和30~40年代には、そんな風景は見たことがなかった。それ以降も、地元にいてそんな話は聞いたことがなかった。keiも山でヤマユリが咲いているのを見た記憶はある。湯村山一帯は昼でも薄暗い雑木林で、そんな中を歩いていると、突然円形の窪地に出くわすことがあり、そこは木もなく、暗い林の中に強い日差しが差し込んでいた。ヤマユリは、そんな日差しの中にポツンと1,2本白地にオレンジの花を咲かせていた。当時、子供の間では、
「窪地はB29が落とした爆弾の跡で、穴の中に死んだ人を埋めたので、その血を吸って百合が赤くなる」
という都市伝説があり、みんな百合の花を見つけると、そそくさと山を下りたのを覚えている。一面に咲き乱れるという景色ではなかった。暗い林の中にスポットライトのように太陽の光が差し込み、そこに花がポツンと咲いている風景は忘れられない。今考えてみると、窪地はイノシシのヌタ場ではではなかったかと思うが、当時は本当に人が埋まっていると信じていた。また、完全にオレンジ色のオニユリもあった気がする。(このあたりの記憶は曖昧です)
湯村山は里山である。だから、人が便利に利用するため、植栽をするなどの手を加えることは悪いことだとは思わない。ただ、しっかり説明すべきである。中学生を動員するなら、自然環境の保護と里山の保全の違いをしっかり教えるべきであろう。何でも植えて、緑を増やし、花を増やすことが自然保護ではない。
自然環境の保全という観点から見れば、湯村山に移植しているヤマユリの球根は、元来湯村山にあったものと同一種なのか、ヤマユリを増やすために他の動植物に対する影響は考慮しているのかなどを考えて欲しい。(記憶が定かではないが、以前報道で大月市から球根を持ってきていると聞いた)
また、こういった活動が一個人のレベルでなく、行政が動くと非常に影響力があることを忘れてはいけない。八王子市でも同様の取り組みがあったようであるが、八王子市では生物多様性への配慮から球根、鱗片等による増殖ではなく、地元産の種子を使った方法をとっている。
日本の渓流にはヤマメ、アマゴ、イワナなどが住んでいる。これら陸封された魚は、人が手を加えなければ別の川に移動することなく、互いに棲み分けていた。現在は、無計画な放流によりヤマメとアマゴの生息域は入り乱れ、イワナも地域の固有種が失われてしまった。その昔、これら陸封魚の移動は「またぎ」と呼ばれた漁師が自らの食料とするため、細々と行われていたが、大きな組織が、大規模に手を入れたことにより交雑等は一気に加速した。
魚より更に移動の手段を持たない植物にあっては、より一層慎重な取り組みが必要なのではないかと考える。
 湯村山のヤマユリ2 へ続く・・・・

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