後世の歌にあるように 「人は石垣 人は城」 ということらしい。
現在の武田神社周辺に館があり、万が一のためにすぐ北側に要害山という山城を持っていた。
甲府駅の南側に舞鶴城(甲府城)はある。
戦国時代が終わったあと、江戸にいる徳川を見張るために豊臣が作ったのが最初らしい。
その後、徳川の時代となって、江戸を守るための役割があったらしい。山梨県民には、あまりなじみのない城で、誰の居城だったかも知らない。
20年くらい前までは、石垣と堀が残るのみで、一番高いところには明治天皇の業績をたたえる謝恩塔(オベリスク)が建てられ、敷地の一部には青少年科学センターという施設があった。
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謝恩塔 |
最近「鉄門」という大きな門を作ったけど、 keiが知る限り、この門については礎石の一部が発掘されただけで、素材や大きさ、形状など、詳しいことは解っていないのが実情である。何を根拠としたのか・・・・ 水戸黄門でも見て作ったのかなぁ
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鉄門復元時の看板だけど、礎石しか解っていない |
でも、ここは「史跡」だそうである。 keiは史跡っていうのは、歴史上の遺産を後世に正しく伝えるためのものだと思っていたけど・・・・・ よく わかんないね
以前には石垣を作り直しているときに、その石が大量に紛失する事案もあったけど、うやむやになってしまっている。また、一時は お城をLEDのイルミネーションでケバケバしくライトアップするという、わけのわからないイベントをやっていた。
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遊園地じゃないんだよね |
でっ・・・・・ 平成26年9月3日の新聞に
天守閣復元に7万人署名
という記事が載った。「天守閣など甲府城復元・整備推進会議」という団体がやっているらしい。調べてみると、甲府市中心の商工会が中心となっているもので、甲府城を整備して観光客を呼び込み中心街の活性化を図る目的らしい。ほかにも 甲府市や山梨県もバックアップしているようだ。keiの従兄弟が、以前県庁に勤めていたとき、知事の特命で「他県で資料がない場合の築城のプロセス」等の情報を収集して、研究していたことがあった。長大な構想の下にプロジェクトが進んでいるようだ。外堀を一つ一つ埋めていくように、築城に向けて地ならしをしている感じがする。
史跡を壊したり、改変して想像上の産物を作ることに何か意味があるのか・・・
誰が住んだか、山梨県民には何の思い入れもない城が必要か・・・・
明治天皇の業績をたたえる謝恩塔をどうするのか・・・・
よく 考えてみたい。ここに城を作るくらいなら、武田信玄の史跡を整備した方が、観光客は来てくれると思うけど、どうだろう。
keiが小さい頃(40~50年前)、甲府市中心街は休日ともなれば、人でごった返し、歩くのも大変だった時代がある。それが、いまは閑古鳥が鳴いている。
城を作ったからって、商店街が活気づくとは、単純すぎるよ。廃れていくには、それなりの理由があるのだ。それは、甲府市中心街のお店へ買い物に行ってみればすぐ解るよ。
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オベリスクと武徳殿 |
ネット上で こんな コラムを見つけたよ タウンネット 山梨県
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